これまでの人生行路とこれから
さて、この手記は、自分の気持ちをある程度まとめるためと、日本では稀有な部類に入る人生行程を経てきたであろう自分の行く末を時系列に沿って、書くことで誰かの良いデータになれば、と考えたものだ。
大体の自分のこれまでの流れをざっと書いていこう。
1. 学部時代
学部に入学したのが19の時であり、県外(実家から3時間以上)の工学部であったため一人暮らしをしていた。
一年後、面倒な病(自己免疫疾患と多くの併発病)が劇症化し、入院した。
それからは、転落の一途であったが、凡そ普通の生活とは程遠い、自分にとっては辛い日々であった。
何をするにも、基本年中調子が悪く、様々な病を繰り返し発症し、入院する。
大学時代は基本ぼっちであったため、特に大学に対する何の感慨も無く、調子が悪すぎて入院したり、休学するたびに学年が下がっていき、ただただ虚無が蔓延していた。
それでも、大学にしがみついていた理由は、「学問」、ひいては知性というものに対する、情熱や憧れがあったからに他ならない。
それでも、一回本気で大学を辞めようと思った瞬間があったのを覚えている。
前期で、多くの授業をとり、すべての授業に出てはいたが、最後のテスト直前に調子が悪すぎて、実家に帰ってしまった。後期は休学した。
そのため、その年は、年に1単位(保険・体育)しかとれず、あまりの人生のくだらなさに、また自己の何も出来ない身体に対し、究極ともいえる絶望を抱いていた。
みなが楽しんでいるであろう、若き日の青春という名の「群像」と自己のあまりに酷い日々の生活を比較しては、あるひとつの感傷に浸らざるを得なかった。
みなが100パーセント好きなことに注げるエネルギーを、僕は「病気をする」ことで消費していた。
重病になったことある人はわかるかもしれないが、病とはそれ自体が「営み」である。
たとえば、両手を骨折した人は、普通にご飯をたべることが出来ない。
そのため、食べる工夫が必要になり、そのためには道具が必要かもしれない。そして片付けなども考慮すると、普通の人より時間がかかるのは明々白々である。
このように、多くのやばい病は、何らかの特殊な行動が必要となり、ある種の束縛条件を課していくことになる。
それは、大量の薬による副作用かもしれないし、痛みに耐えるための何らかの工夫かもしれない。無論、医療費もバカにならない。
とにもかくにも、一般的に、重い病になると、それ自体が営みと化し、時間やエネルギーを消費するのだ。
病をする、ということは僕にとって、青春生活を無為に費やすことと同義だったのだ。
学部三年になった頃、ある恩師と仲良くなり、研究室に机とパソコンを置いてもらえ、自由に出入りしてよいという許可を頂いた。研究室に仮配属したようなものである。
このとき、初めて学部で長くつるむ人も現れ、研究室で人と交流を持つこととなる。
この時までに、既に入学から7年かかっていた。
4年生のときは、この恩師の研究室に所属し、数値計算物理の研究を行った。
工学部なので内容は工学寄りだが、中身は割りとガチ物理であった。
先輩、後輩との交流も楽しく、初めて学部で楽しい時期だったと思う。
病も少しずつだが、減衰してきており、調子はよくなっていた。
このとき、院に進むか、就職するか悩んだが、その時点でもやはり学問をやるんだ、という謎の修行思想に突き動かされ、他大の院に進んだ。
学部は工学部であったが、学科が違うため、院試の勉強は非常にてこずったことを覚えている。
このとき既に、27か26くらいであったので、人は蛮勇と評するであろう。
果たして、それは正しいように思う。
しかして、人生のレールとは結局は自分で引くしかない。
2. 修士課程
修士課程では、実験物理に転進し超伝導物質を初めて扱った。
僕が歩んだ実験道とは、たゆまぬ地道な物質育成と物性評価、の繰り返しである。
体調が悪いときは非常に辛いこと請け合いである。
免疫疾患は風邪のように、0か1という風に治りきるというのが難しい。波が上下しつつ、徐々に減衰していくようなイメージでよくなったり、悪くなったり。
修士1年目あたりで、かなり辛い時期が訪れ、一人暮らしから実家通いに戻った。
学校生活は楽しかったが、忙しかった。
調子が悪いと、基本的に気分が下がる。なにせ、全身症状というのは辛い。
自分のように、劇的な悪化で相当な耐性があるものでも、恒常的に悪いと徐々に精神を削られていくものだ。
それでも、まだ博士に行ってやるぜ、と考えていた。
一般的にはアホーと言われる類であろうことは、重々わかっている。
かといって、企業就職して体調的にやっていけるかも不明であったし、「人生は博打である」、「選ぶならリスクある選択の方が、人生が読めず面白い」等という、凡そ危険な考えから、博士進学を決めた。
しかも、より深く原理を追求すべく、工学から理学の物理へと専攻を変えた。
そのため僕は学科を三回変えたことになる。
3.博士課程
博士で他学科に移るということは、非常に厳しいことである。
この手の話題の個々の詳細は、地道に書いていってもよいかもしれない。
まず、自分は物理科卒ではないため、習っていない科目が多く、理解してないことが多々ある。
自分の研究分野だと物性物理なので、量子力学は必須である。
これは、学部のときから、独学でやっており、2冊程度は自分で手を動かしてやっていたため、多少は把握していた。
しかし、量子力学は二冊の本を自分で手を動かして全部やったからといって、はい、わかりました!というようなあまい学問ではない。
非常に難しく、問題演習を何度も積まないと自分のようなアホでは身につかない。
まだ、この量子力学はやっていたから良いが、統計力学とかはほとほと困った。
実験から、なんとなく実感としてこういうことがわかる、ということは身についてきたが、詳細な理論に関してはよくわかっていないままである。
物性実験は多岐にわたるため、多くの基礎物理のバックグラウンドが必要である。
これには地道な勉強が不可欠である。ゆえに、実験の後、一人で勉強、という形が好ましいのであろう。
が、しかし、ここでも病が邪魔をしてくる。
かといって、この病を言い訳にしていては、人生においてなんら良いことはない。
何故なら、世間は病であることを考慮にいれてはくれないからである。
そのため、病を自分の能力のひとつと考え、少ない動けるリソースでどう動くか?といった、効率厨的な思考が必要になってくる。
実際、あまりにずっと悪いと、やる気が起きず、正直、何も出来ずに無為に過ごしてしまった時間は多い。
これは改良の余地が大いにあるであろう。
そうはいいつつも、博士一年のときはずっと実験を続け、なんとか博士二年のとき学振(DC2)ゲットした。
しかし1年の中期以降、調子の悪さと相まって、再度実家通い。
もちべを保つのが非常に厳しいくらいに悪化してきて、なかなかうまく行かないことが多かった。
とはいえ、
さて、端折りに端折って、現在、D3です。
アカデミックにしろ、企業にしろ就職活動ってやつをせねばならない。
正直、実験物理をずっとやっていけるのか、体調的にしり込みしてしまう部分が多くあるのは否めない。
また、調子が悪かったという言い訳で、実験後の勉強を怠っていたため、自分の物理が浅いのがわかる。
かといって企業の説明会に行くも、これといった楽しそうな企業を見つけるのも難しいということがわかった。
しかも現在32になってしまい、もはや就職といっても、ガンガン落ちること請け合いである。
実際、既に数社落ちている。
これから人生がどのように進むか、自分でも読めないのだが、それもまた面白いものだ、と考えてうだついている今日この頃である。
適当な雑記になったけど、まあいいか。最初だし。